2015.04/03 [Fri]
四十九日法要で見たー生と死の間のちょっとした瑚噺1
この前、初めて四十九日法要に参列した時に見えたVoiceless worldの瑚噺
***
そのお爺さんは、全員正座している参列者の一番後ろに立っていました。
今日はその方の四十九日法要です。
亡くなった後見つかった遺言書もどきのメモに書いてあった定期預金等の遺産は家族の方が調べた所、ちゃんと銀行に預金されていました。
しかし、通帳も印鑑も見つかりません。
いえ、それどころか手持ちの現金すら見つかりませんでした。
一緒に暮らしていた奥様も場所が分かりませんでした。
子供たちや孫もゲーム感覚で家中探しましたが見つかりませんでした。
そのお爺さんはその間もずっと家の中に居たのかもしれません。
読経が始まります。
始まった途端、
大きな大きな二本の光の手が降りてきました。
光の手は両手でおじさんを包みました。
包まれたお爺さんの体から蓮の花びらの様な
大きな白い花弁が何枚も何枚も舞っていきます。
散華ーさんげー
という言葉を思い出しました。
>散華(さんげ)とは、華(花)を散布すること。仏教では仏を供養するために華を散布する[1]。また花を散らす意味から転じて、死亡すること、特に若くして戦死する事の婉曲表現としても使われてい
>仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降らしたという故事にちなんで行われる。
Wikipediaより
花びらが舞うごとに
お爺さんの体は少しずつ小さくなっていきます…。
そして、最後に残ったのは・・・・・・・・・・・・・・・
そのお爺さんが固執していたもの・・・・・・
金ツボを抱え込む巨大な手と・・・・
男性自身・・・・
その姿はまるで教科書で見た脳の中の小人(ホムンクルス)を思い出させました。
とてもとても女性がお好きな方だったのは存じていましたが…
うわぁ・・・(/ω\)。
そして、あの手・・・
これでは成仏されるまでお金は見つからないだろうなぁ…
と思いました。
読経は続きます。
花は散り
お爺さんはどんどん小さくなります。
本当に「手とあそこ」だけになった後も
さらに花は散ります
そして最後の最後に胡桃の様な殻が残りました。
硬い
硬い
とても硬そうな殻です
>どうするんだろう?
そう思っていたら・・・
今までふんわりと包んでいた大きな光の手が、
がしっっっっ!!!!
と、その胡桃を挟み込みこんだとおもったら、
バリバリバリバリ
と凄まじい音が聞こえそうな勢いで
殻を砕きました。
砕かれた後に子供が現れました。
その子はどんどん幼くなっていきます。
小学生
幼稚園
幼児
乳児
さらにどんどん幼くなっていきます
胎児
12ヶ月
11ヶ月
10ヶ月
・・・
・・・
・・・
最後に
精子と卵子とそして…小さく光る魂の3つに別れ・・・
魂は光の手に導かれふわふわと上に上がっていきました。
***
仏教の話の中に「浄玻璃の鏡」という物が出て来るのを思い出しました。
四十九日(七七日=なななのか)に至る途中の35日目(五七日=いつなのか)に閻魔大王が死者が何処の世界(極楽・地獄等々)に行くかを決めると言われています。
その中で生前の行いを映しだすのがこの「浄玻璃の鏡」
その鏡の中に生前の行動やその行動によって関わった人がどうなったかなど全て映しだされていき、
これを見た人は自分自身の人生を客観的に見つめることになります。
そしてその時に、自身の人生の意味や罪を深く感じたり後悔、慚愧、懺悔すると言われています。
<浄玻璃の鏡 より>
一枚一枚舞って行ったあの花びらは、
その鏡を見て己を知るのと様な「前世の垢」の姿であったのではないだろうか?
胡桃のように硬かった殻は「最後の己の我」
それが砕けさった後は、
残りの人生を遡り・・・
どんどん遡り・・・
最後に生を受ける瞬間にまでいたり
そして又、天に戻って行った姿ではないか?
これって、本当に「浄玻璃の鏡の話」と「四十九日の話」そのものだぁ・・・
と、全てを見終わってから思ったのでした。
帰ってきてから、四十九日を改めて調べてみました。
****
発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に亘り法要を行っていた。(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)輪廻の思想により、人の没後49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。
Wikipediaより
****
といいます。
私が垣間見させて頂いたのも、
かつてお爺さんだった魂の最後の旅路だったのかもしれません。
これは、仏界形式かもしれないので、
キリスト教や他の教えでは違うかもしれませんが、
お葬式以外は見たこと無いので、其処の所は分かりません。
けど、国にかかわらず人種に関わらず、まして宗教に関わらず、
人は同じように生まれてくるように、
宗派という人が考えた枠に関わらず、
魂はまた、生まれた時のように帰っていくのだと思いました。
***
お婆さん(奥さん)は
お爺さんに散々苦労しました。
そんなお爺さんのメモ代わりの遺書には
こう書いてあったそうです。
>ワシが本当に好きだったのは○○(奥さんの名前)だった。
>あんたと又旅行に行きたかった
本当に本当に苦労しましたが、
お婆さんは「あの人は必ず極楽に行くわ!」と言いました。
行くよ
行く行く
ちゃんと上に上がったもん
お婆さん、さすが!
そんなお婆さんは私の伯母です。
「オバサンは霊感ヤマカン第六感!」と自分の事をおっしゃいます。
はい。
本当にそのとおりでございます!
けど、惜しむらくは・・・
おじさんが書いたあの言葉を、
生きている間に伯母さんに言って欲しかったです。
そうすれば、
もっともっと分かり合えただろうに。
最後の硬い殻は
そんな伯父さんの頑なな心だったのか・・・
瑚月さんが見た、
生と死の間(四十九日=中陰)のちょっとした瑚噺でした。
***
そのお爺さんは、全員正座している参列者の一番後ろに立っていました。
今日はその方の四十九日法要です。
亡くなった後見つかった遺言書もどきのメモに書いてあった定期預金等の遺産は家族の方が調べた所、ちゃんと銀行に預金されていました。
しかし、通帳も印鑑も見つかりません。
いえ、それどころか手持ちの現金すら見つかりませんでした。
一緒に暮らしていた奥様も場所が分かりませんでした。
子供たちや孫もゲーム感覚で家中探しましたが見つかりませんでした。
そのお爺さんはその間もずっと家の中に居たのかもしれません。
読経が始まります。
始まった途端、
大きな大きな二本の光の手が降りてきました。
光の手は両手でおじさんを包みました。
包まれたお爺さんの体から蓮の花びらの様な
大きな白い花弁が何枚も何枚も舞っていきます。
散華ーさんげー
という言葉を思い出しました。
>散華(さんげ)とは、華(花)を散布すること。仏教では仏を供養するために華を散布する[1]。また花を散らす意味から転じて、死亡すること、特に若くして戦死する事の婉曲表現としても使われてい
>仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降らしたという故事にちなんで行われる。
Wikipediaより
花びらが舞うごとに
お爺さんの体は少しずつ小さくなっていきます…。
そして、最後に残ったのは・・・・・・・・・・・・・・・
そのお爺さんが固執していたもの・・・・・・
金ツボを抱え込む巨大な手と・・・・
男性自身・・・・
その姿はまるで教科書で見た脳の中の小人(ホムンクルス)を思い出させました。
とてもとても女性がお好きな方だったのは存じていましたが…
うわぁ・・・(/ω\)。
そして、あの手・・・
これでは成仏されるまでお金は見つからないだろうなぁ…
と思いました。
読経は続きます。
花は散り
お爺さんはどんどん小さくなります。
本当に「手とあそこ」だけになった後も
さらに花は散ります
そして最後の最後に胡桃の様な殻が残りました。
硬い
硬い
とても硬そうな殻です
>どうするんだろう?
そう思っていたら・・・
今までふんわりと包んでいた大きな光の手が、
がしっっっっ!!!!
と、その胡桃を挟み込みこんだとおもったら、
バリバリバリバリ
と凄まじい音が聞こえそうな勢いで
殻を砕きました。
砕かれた後に子供が現れました。
その子はどんどん幼くなっていきます。
小学生
幼稚園
幼児
乳児
さらにどんどん幼くなっていきます
胎児
12ヶ月
11ヶ月
10ヶ月
・・・
・・・
・・・
最後に
精子と卵子とそして…小さく光る魂の3つに別れ・・・
魂は光の手に導かれふわふわと上に上がっていきました。
***
仏教の話の中に「浄玻璃の鏡」という物が出て来るのを思い出しました。
四十九日(七七日=なななのか)に至る途中の35日目(五七日=いつなのか)に閻魔大王が死者が何処の世界(極楽・地獄等々)に行くかを決めると言われています。
その中で生前の行いを映しだすのがこの「浄玻璃の鏡」
その鏡の中に生前の行動やその行動によって関わった人がどうなったかなど全て映しだされていき、
これを見た人は自分自身の人生を客観的に見つめることになります。
そしてその時に、自身の人生の意味や罪を深く感じたり後悔、慚愧、懺悔すると言われています。
<浄玻璃の鏡 より>
一枚一枚舞って行ったあの花びらは、
その鏡を見て己を知るのと様な「前世の垢」の姿であったのではないだろうか?
胡桃のように硬かった殻は「最後の己の我」
それが砕けさった後は、
残りの人生を遡り・・・
どんどん遡り・・・
最後に生を受ける瞬間にまでいたり
そして又、天に戻って行った姿ではないか?
これって、本当に「浄玻璃の鏡の話」と「四十九日の話」そのものだぁ・・・
と、全てを見終わってから思ったのでした。
帰ってきてから、四十九日を改めて調べてみました。
****
発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に亘り法要を行っていた。(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)輪廻の思想により、人の没後49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。
Wikipediaより
****
といいます。
私が垣間見させて頂いたのも、
かつてお爺さんだった魂の最後の旅路だったのかもしれません。
これは、仏界形式かもしれないので、
キリスト教や他の教えでは違うかもしれませんが、
お葬式以外は見たこと無いので、其処の所は分かりません。
けど、国にかかわらず人種に関わらず、まして宗教に関わらず、
人は同じように生まれてくるように、
宗派という人が考えた枠に関わらず、
魂はまた、生まれた時のように帰っていくのだと思いました。
***
お婆さん(奥さん)は
お爺さんに散々苦労しました。
そんなお爺さんのメモ代わりの遺書には
こう書いてあったそうです。
>ワシが本当に好きだったのは○○(奥さんの名前)だった。
>あんたと又旅行に行きたかった
本当に本当に苦労しましたが、
お婆さんは「あの人は必ず極楽に行くわ!」と言いました。
行くよ
行く行く
ちゃんと上に上がったもん
お婆さん、さすが!
そんなお婆さんは私の伯母です。
「オバサンは霊感ヤマカン第六感!」と自分の事をおっしゃいます。
はい。
本当にそのとおりでございます!
けど、惜しむらくは・・・
おじさんが書いたあの言葉を、
生きている間に伯母さんに言って欲しかったです。
そうすれば、
もっともっと分かり合えただろうに。
最後の硬い殻は
そんな伯父さんの頑なな心だったのか・・・
瑚月さんが見た、
生と死の間(四十九日=中陰)のちょっとした瑚噺でした。
- 関連記事
-
- 妖精からの要請ーRINJIN OF VOICELESS WORLD (2015/04/08)
- 四十九日法要で見たー生と死の間のちょっとした瑚噺1 (2015/04/03)
- 新年度スタート:私達の産土 ー産土神6 (2015/04/02)
スポンサーサイト
Comment
Comment_form