2012.12/23 [Sun]
瞑想する微笑~Eテレ:円空仏が数%楽しく見えるかも知れないもう一つの世界
今晩8時にEテレで「円空 飛騨巡礼の旅」(日曜美術館)が再放送されます。
先週の放映で私が見えた「画面に映らない円空仏の世界」はとても感慨深いものでしたのでした。
円空仏は日本の宝であり、
有名な仏像でありますが、その理由の一つになるかもしれない「もう一つ世界からの解説」を載せることで、
各々の思いで円空仏に触れていただけるきっかけになればとアップしました。
今回は、そんな私が見せてもらった「もう一つの円空仏」の瑚噺をいたしましょう。
まず、円空仏とは何か?。
ここはEテレのHPのご説明をお借りしながらご説明するのがわかりやすいかなと思います。
*************
◆円空とは⇒円空さんはお坊さんです。
◆どんなお坊さん?
⇒江戸時代前期(350年前)、旅に生き、天災や飢きんなどに苦しむ人々のため、仏像を彫り続けた遊行僧。
生涯に12万体もの仏像を彫ったと伝えられ、現在5千体以上が確認されている。
円空は現在の岐阜県に生まれ、30歳を過ぎてから仏像を彫り始める。
その後、東北、北海道へと修行を続けながら仏像を作った円空が、旅の中で繰り返し訪れたのが岐阜県飛騨地方。高山市を中心に飛騨には円空と人々との結びつきを伝える仏像が数多く残されている。
◆円空仏とは
⇒断ち割った木の肌合いを生かし、ノミ跡を大胆に残した荒々しい造形と、慈愛に満ちたほほえみ。
仏像の常識を覆す傑出した独創性を持つ仏像は、円空仏と呼ばれ、各地で大切に守り継がれてきた。
**************
◆今回の日曜美術館の視点◆
型破りな造形はいかにして生み出されたのか?なぜ12万体もの像を造ろうとしたのか?円空に強く心惹かれている東洋文化研究家のアレックス・カーさんが初冬の飛騨に円空と地域の人々との結びつきを訪ねる。
**************
~まず、TVを見る前に~
私も円空仏に惹かれ、一昨年、飛騨に行きました。
友人との旅行のついでであったので、有名な展示館ではなく、下呂温泉郷の中にある古民家の中で展示されている円空仏さんにお会いしました。
生まれてはじめて拝見する円空仏がどのようなものか、期待にわくわくしながら行ったのですが、
その時の印象は・・・
・・・
・・・
話さないホトケさんだな・・・orz←残念だったらしい。
奈良の仏像は、以前もブログでお話しましたが、ある面とても実務的というか、アグレッシブというか・・・。
東大寺の大仏さんなんかは、大仏像に入った途端「ここまで良く来たな。その思いと功徳により浄化してしんぜよう」というようなのりで、御前で手を合わせた瞬間から「お仕事を開始」されます。
また、私自身が友人を伴ってとか「用事があって行く」ためか、
ご本尊の方から、伝えてきてくれる事がほとんどでした。
ゆえに、独自の雰囲気はもつものの、目の前に行っても何も語らず伝えない円空仏に、
正直「肩透かし」を食らった感じでした。
・・・円空さんってこんな感じなのか・・・。
深さ、よりもその上を滑って流されてしまうような静けさを感じたのです。
そのあっさりさは「浅さ」とも取りかねないものでした。
しかし、
これが「おっとどっこい、瑚月の愚か者。底が浅いのは、おのれ」だった事が分かったのが、
前回放映された「円空 飛騨巡礼の旅」でした。
ではアレックス・カー氏が誘う番組の流れにそって、私が見た「もう一つの円空仏」の瑚噺をいたしましょう。
************
◆円空さん初期の仏:
後期のデフォルメされた仏さんと違い、細やかなノミ使いで作られています。
⇒その仏から立ち上って見えたのは、一心不乱にノミを振るう円空さんでした。
仏の道をどう伝えるか、模索し、彼なりに「仏像を作る」という「道」を見出した頃なのでしょうか。
「仏の心を伝えるのだ」というような若く、強い意思です。
しかし、逆に言えばそれは「与える事」を目標としている段階なのかもしれません。
仏の尊さ、強さ、ありがたさ、優しさを「伝えたい」。
極端な言い方ですが「発信型の仏」とも言えるかもしれません。
しかし、私が最終的に感じた円空さんの仏の真髄は、それとは違うのです。
それが、奈良の大仏やお寺に祀られている仏像との大きな違いであり、
また、円空仏の姿、特にその微笑みに心惹かれる最大の理由ではないかと思います。
*********
番組は実にうまく、円空仏の「表面」から「奥底」を感じさせる道順で、
円空仏を紹介していきます。
*********
◆円空さんの晩期の作品:三十三観音像
⇒三十三体の観音像がケースの中に立っています。
その姿は凄く静かで、まさに「木」そのもの。
「仏になる」前の木のまま、まるでそこに静かな森林があるような「静けさ」を感じます。
私は、それを見た時、またその様な「なにも語らなさ」に驚きつつ、
なんでこんなにも語らない仏が愛されるのか不思議だと見つめていました。
しかし、番組でアレックス・カー氏が観音様方を前に語りはじめた時に、変化が起きます。
アレックス・カー氏に一番近い仏の表情が変わりました。
「木」の様な悟りを感じるような「静けさ」から、
じっと優しい顔で話を聴き始めたのです。
その時やっとわかりました。
円空仏は『語りかけるものを』慈悲でつつむ「仏」なのだと。
アレックス・カー氏を優しく優しく、まさに慈悲の微笑みで包むように聞いています。
円空仏は「求める人の心の慟哭、悩み憂える訴え、または心弾む喜びの声」
そんな人々の日々の語りがけに耳を傾け、それに対し包む仏様なのです。
語ってこそ、開かれる扉だったのです。
本当に、すごい・・・。
(しかし、この時点で私はまだその「暖かでなんとも言えない慈しみの心」がなにであるか、
わかりきってなかったのです。)
一昨年、私が円空仏に会いに行った時、
私は眺めるだけでした。
語られるのを待っているだけでした。
そして、語られないことを誤解したままでいたのです。
*************
◆異形の仏:円空の仏像には40代半ばから「護法神(ごほうじん)」という不思議な異形の仏が登場する。
⇒実はここは、ちょっと所要で深く見ていない。
というか、画面を通して「仏さん」に確認する暇がなかったのです。すみません。
けど、その時ちらっと思ったのは、「古代神」や「精霊(といっていいのかな、土地の守護とうか、土地にいる異界の方々」を写しとり、掘り出し、形を与えたのだなということです。
土地に居着く彼らを円空さんは「感じ取った」、もしくは、「分かって」、
彼らに姿を与えたのかもしれません。
どうか守ってやってくれと。
円空仏は、そのラフな作りや、余り木などで作られた気楽さから、
「祀られる」ことよりも、抱かれ、人に寄り、話し合ってきた仏です。
そういう存在の中に身を移すことは、
「人が好き」で、残っていた彼らにとっても嬉しい事だったのではないでしょうか。
(「彼ら」については拙ブログ内のカテゴリー「神世水奇譚」の後半に述べられています。)
今日調べてみた番組のHPの中にはこう書かれていました。
**********
表面はなた彫りでザックリ。形は、髪の毛が逆立っているものから、木の切り株のようなもの、狐(きつね)か鳥のような顔まで、さまざま。いったいこれは…?
この自由で、あまりにも枠にとらわれない仏像を誕生させた円空の狙いとは何だったのか。“革命”ともいえる新たな仏像誕生には、円空が厳しい修行から得た独自の境地と日本古来の世界観がかかわっていた。浮かび上がってくるアニミズムの精神…(以上 HPより抜粋。
**********
アミニズムの世界。
それをよく感じることができる場面が番組の中にあります。
『深い森の中にある清流』のシーンです。
それは失われて行っている日本の「有形無形の財産」です。
私はとても大事な財産に感じます。
その清流を「鬱蒼としている」「陰気臭い」「ジメジメしてそう」「ただの水」と見ることも出来れば、
深淵なる世界、自分を映し出す鏡のような世界、生きとし生けるものがバランスよく生きている「統合の美」の世界、と感じ取る事もできます。
どう感じるかは、見る人の感性であり、生き方です。
その財産をどうするかも自由です。
全部を残せ・・・とは言いません。
というか、残そうと思っても、もはや残せるのもはもうわずかしかないのですが・・・。
「感性=その人の文化」が残された財産の使い方を決めるのであれば、
今、私達に新たに出来る事は、自分の「感性」を磨く事であったり、
子に伝える事だと思いました。
忙しいお母さんに山の奥にイケとはいいません。
公園に落ちている葉っぱ一枚、枯れ枝一本でどれだけ子供が遊べるか・・・。
その一枚と一本を取り上げるか、与えるか、
そして、その遊びや葉っぱに親がどれだけ共感し、その共感によって子供の心が振動して、深く広く成長するのを手伝えるか・・・。
なんでもない小枝を「おもちゃ」として「創造」する力って、大人には難しい素晴らしい発想力だと思います。
その想像力が「見えない人の心を思いやる」事につながっていくようにも思いますし、
今後の日本が良い方に変わっていくような、思いもしない発想を生むかもしれません。
何が善でも悪でもなく「考え方、その方の文化の違い」でしかないのですが、
まず自分の感性(文化)がどうなのか、自分自身を考えるにいいシーンかもしれません。
ああ、すみません。
横道にそれ過ぎました・・・。
では最後に紹介される民家に伝わっている円空仏についての瑚噺をば。
初期の発信型でもなく、中期の「移し身仏」がより高みに登った形がそこにはありました。
◆河に浮かべて遊んだ円空仏
番組では民家に住むご主人が、円空仏と遊んだ噺をしてくれます。
円空仏に対して「友達が来たような」とその人が語ったとたん、
仏像から「懐かしさ」と「うれしさ」と、
そして、「ちょっとのほろ苦い寂しさ」が伝わってきてきました。
長い間、離れて見つめていた大事な人に、
やっと振り向いてもらえた時のような、
古い思い出のアルバムを開き、過ぎ去った日々を懐かしむような・・・
甘酸っぱい思いが伝わり、涙が滲んで来ました。
黒光りした仏さんを、アレックス氏は炉端で皆が眺めていたから等々、お話されます。
これがまた、仏さんの思いというか、背景をよく描写されています。
一物を極めると、能力云々(私自身はこの言い方があまり好きではないのですが・・・)なんぞなくても、
大事な物はちゃんと伝わってくるんだなと思いました。
それは、特別視されるものでもなんでもなく、誰でも本来もっている「人の大事な感性」の一つであるのだということも感じさせて頂きました。
そういう氏の言葉に反応して、
円空仏から色々な情景が流れ出てきました。
炉端で、日々の事を話す人。
時には誰にも言えない事を、誰にも見せられない涙を仏さんに見せつつ話す人。
嬉しいことや、めでたい報告、一家の話の場に家長の膝の上で共に聞いていた仏さん。
友達として、河で流されながらニコニコしている仏さん。
そいうイメージを感じながら、そういう勉強も何もしていない私ですが、
「円空仏」とはどういう仏さんなのか、感じるものがありました。
円空仏は、余り木で、ラフに作られる必要があったのではないでしょうか。
その理由の一つは、「身近に居るため」です。
丁寧に彫られ、ありがたがられ、祀られてしまっては「共に居ること」ができません。
円空仏は、いつも人とともに、肌を寄せ合い生きる必要があったのだと思いました。
そうして、人は服の袂や、時にはすぐそこに転がっている円空仏にはなしをします。
話をすることにより、円空仏はその目的と本領を最大限に発揮します。
語る人の言葉を受け、それを受け止める器になると共に、
その独特な微笑みを向けます。
瞑想するかのように細い瞳は、語り手の心を見つめます。
そして円空仏は「その人の中の仏」を映し出す鏡になるのです。
ラフな作りで有るほど、その姿に固定観念は消えていきます。
持った人が思うものに変わっていきます。
けど単なる「人形」ではなく、円空仏があくまで「仏」であるのは、
創りだした円空さんの心願ゆえだと思います。
初期の頃は、丁寧な仏の姿を掘り、そこから、仏を知ってもらおうとされたのかもしれません。
しかし晩年、彼は「人の中にある真性」、人の中にある「仏」を映し出し、
「自分の中の神の部分により自分を癒す」そしてそれにより「自分の中に神がいることをしってもらう」
事を心願にしたのではないでしょうか。
そのために、もっともそれに適した仏を作り出そうとし、
そして創りだしたのだと思います。
************
円空さんの時代は色々な土地で説法をしていけないという規約もあったようです。
そしてまた、仏の説法をいくら説いても、
喉元過ぎればなんとやら・・・、
人はその時の感情で、ありがたい話もすっとびます。
苦しくて、
悲しくて、
努力しても、何をしても・・・、
自分で同仕様もできないジレンマに陥った時、
ありがたい話は「ありがたくない話」にすらなってしまいます。
そんなジレンマを彼自身も知っていたのかもしれません。
そして、彼は自らが語ることをやめ、仏像に代弁を頼む事にしたのかもしれません。
仏を感じるように、仏の教えを思い出すように「仏像」を作り出していき・・・、
そのうち、色々な教えよりも「自分の中に仏がいる」という仏教の真骨頂を伝える事を一番にしたのではないでしょうか。
デフォルメされた仏は、「鏡」です。
安易に触れる事ができる仏像は、触れることで「触れている『自分自身』」を再認識する事ができます。
瞑想と違う意味で、そこには感じる事ではっきりする「自分」があります。
細い目は覗きこむものを自分自身の心に誘う案内手となります。
そして、円空仏最大の特徴である「ほほえみ」は、
『貴方の中にいる、貴方という仏の究極の力が「いつくしみ」で有るということ』、
を現しているのではないかと思いました。
「いつくしみ」
それは円空が見た人の中の仏の姿であり、人々に一番気がついて大事に持ち続けて欲しい宝珠だったのではないでしょうか・・・。
円空仏。
瞑想する微笑。
それは、貴方が円空仏に語りかける事で瞳を開けます。
手に取り、見つめることで「貴方の心の中の微笑」が花ひらくのです。
それが、
簡素な木の木切れである円空仏にかくも大勢が魅了する最大の要因ではないかと思うのです。
自分探しって、昔からやってたんですね・・・。
そう、最低でもブッタの時代にはもうね。
今、私達が触れられる円空仏はほとんどないですが、
私達が語りかける事ができる円空仏はまだ残っています。
円空さんは仏さんを作るときに、残す人や場所にあわせて「鏡の姿(仏像)」を変えています。
なので、世の中の展示物の円空仏の中で、貴方が「私の仏さんは?」と問うたなら、
きっと答えてくれる円空仏があるでしょう。
それは、耳に聞こえる声でもなく、
貴方の語りかけに対して、貴方の心に直接「惹かれる」「気になる」という形で返事をしてくれるでしょう。
最後に・・・、
三十三観音像に私が感じた慈しみの心は、
語りかけたアレックス・カー氏の心のなかの仏の波動だったのです。
民家に祀られている仏から来た「懐かしさ、嬉しさ、大事なものを慈しむ思い」は
一番身近に接してきたご主人の心の仏が発したものでした。
私は、画像の中の円空仏を通して、
一人ひとりの心のなかに居るその人の仏に触れさせて頂いたのです。
すごい・・・。
という感嘆以外なにもありません。
そして、人がこんなにも暖かい慈しみの心を持っている事を教えていただけた事に、
ただただ感謝するしか出来ませんでした。
***********
Eテレ再放送は12月23日夜8時からです。
円空仏が数%楽しく見える事を願いつつ。
それではまた。
瑚月
*********
注:
仏像や円空仏に対する膨大な書籍や学問が世に多々ありますが、それらにはほぼ無縁な無学なものでございます。
上記はあくまでも瑚月が感じた「感想」であり、一個人の思考の中での産物です。
ふかく円空仏を愛し、研究され続けた方々にとっては異論も多々あると思いますが、
感想文のようなものと、なにとぞご了承頂けたらとお願いいたします。
先週の放映で私が見えた「画面に映らない円空仏の世界」はとても感慨深いものでしたのでした。
円空仏は日本の宝であり、
有名な仏像でありますが、その理由の一つになるかもしれない「もう一つ世界からの解説」を載せることで、
各々の思いで円空仏に触れていただけるきっかけになればとアップしました。
今回は、そんな私が見せてもらった「もう一つの円空仏」の瑚噺をいたしましょう。
まず、円空仏とは何か?。
ここはEテレのHPのご説明をお借りしながらご説明するのがわかりやすいかなと思います。
*************
◆円空とは⇒円空さんはお坊さんです。
◆どんなお坊さん?
⇒江戸時代前期(350年前)、旅に生き、天災や飢きんなどに苦しむ人々のため、仏像を彫り続けた遊行僧。
生涯に12万体もの仏像を彫ったと伝えられ、現在5千体以上が確認されている。
円空は現在の岐阜県に生まれ、30歳を過ぎてから仏像を彫り始める。
その後、東北、北海道へと修行を続けながら仏像を作った円空が、旅の中で繰り返し訪れたのが岐阜県飛騨地方。高山市を中心に飛騨には円空と人々との結びつきを伝える仏像が数多く残されている。
◆円空仏とは
⇒断ち割った木の肌合いを生かし、ノミ跡を大胆に残した荒々しい造形と、慈愛に満ちたほほえみ。
仏像の常識を覆す傑出した独創性を持つ仏像は、円空仏と呼ばれ、各地で大切に守り継がれてきた。
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◆今回の日曜美術館の視点◆
型破りな造形はいかにして生み出されたのか?なぜ12万体もの像を造ろうとしたのか?円空に強く心惹かれている東洋文化研究家のアレックス・カーさんが初冬の飛騨に円空と地域の人々との結びつきを訪ねる。
**************
~まず、TVを見る前に~
私も円空仏に惹かれ、一昨年、飛騨に行きました。
友人との旅行のついでであったので、有名な展示館ではなく、下呂温泉郷の中にある古民家の中で展示されている円空仏さんにお会いしました。
生まれてはじめて拝見する円空仏がどのようなものか、期待にわくわくしながら行ったのですが、
その時の印象は・・・
・・・
・・・
話さないホトケさんだな・・・orz←残念だったらしい。
奈良の仏像は、以前もブログでお話しましたが、ある面とても実務的というか、アグレッシブというか・・・。
東大寺の大仏さんなんかは、大仏像に入った途端「ここまで良く来たな。その思いと功徳により浄化してしんぜよう」というようなのりで、御前で手を合わせた瞬間から「お仕事を開始」されます。
また、私自身が友人を伴ってとか「用事があって行く」ためか、
ご本尊の方から、伝えてきてくれる事がほとんどでした。
ゆえに、独自の雰囲気はもつものの、目の前に行っても何も語らず伝えない円空仏に、
正直「肩透かし」を食らった感じでした。
・・・円空さんってこんな感じなのか・・・。
深さ、よりもその上を滑って流されてしまうような静けさを感じたのです。
そのあっさりさは「浅さ」とも取りかねないものでした。
しかし、
これが「おっとどっこい、瑚月の愚か者。底が浅いのは、おのれ」だった事が分かったのが、
前回放映された「円空 飛騨巡礼の旅」でした。
ではアレックス・カー氏が誘う番組の流れにそって、私が見た「もう一つの円空仏」の瑚噺をいたしましょう。
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◆円空さん初期の仏:
後期のデフォルメされた仏さんと違い、細やかなノミ使いで作られています。
⇒その仏から立ち上って見えたのは、一心不乱にノミを振るう円空さんでした。
仏の道をどう伝えるか、模索し、彼なりに「仏像を作る」という「道」を見出した頃なのでしょうか。
「仏の心を伝えるのだ」というような若く、強い意思です。
しかし、逆に言えばそれは「与える事」を目標としている段階なのかもしれません。
仏の尊さ、強さ、ありがたさ、優しさを「伝えたい」。
極端な言い方ですが「発信型の仏」とも言えるかもしれません。
しかし、私が最終的に感じた円空さんの仏の真髄は、それとは違うのです。
それが、奈良の大仏やお寺に祀られている仏像との大きな違いであり、
また、円空仏の姿、特にその微笑みに心惹かれる最大の理由ではないかと思います。
*********
番組は実にうまく、円空仏の「表面」から「奥底」を感じさせる道順で、
円空仏を紹介していきます。
*********
◆円空さんの晩期の作品:三十三観音像
⇒三十三体の観音像がケースの中に立っています。
その姿は凄く静かで、まさに「木」そのもの。
「仏になる」前の木のまま、まるでそこに静かな森林があるような「静けさ」を感じます。
私は、それを見た時、またその様な「なにも語らなさ」に驚きつつ、
なんでこんなにも語らない仏が愛されるのか不思議だと見つめていました。
しかし、番組でアレックス・カー氏が観音様方を前に語りはじめた時に、変化が起きます。
アレックス・カー氏に一番近い仏の表情が変わりました。
「木」の様な悟りを感じるような「静けさ」から、
じっと優しい顔で話を聴き始めたのです。
その時やっとわかりました。
円空仏は『語りかけるものを』慈悲でつつむ「仏」なのだと。
アレックス・カー氏を優しく優しく、まさに慈悲の微笑みで包むように聞いています。
円空仏は「求める人の心の慟哭、悩み憂える訴え、または心弾む喜びの声」
そんな人々の日々の語りがけに耳を傾け、それに対し包む仏様なのです。
語ってこそ、開かれる扉だったのです。
本当に、すごい・・・。
(しかし、この時点で私はまだその「暖かでなんとも言えない慈しみの心」がなにであるか、
わかりきってなかったのです。)
一昨年、私が円空仏に会いに行った時、
私は眺めるだけでした。
語られるのを待っているだけでした。
そして、語られないことを誤解したままでいたのです。
*************
◆異形の仏:円空の仏像には40代半ばから「護法神(ごほうじん)」という不思議な異形の仏が登場する。
⇒実はここは、ちょっと所要で深く見ていない。
というか、画面を通して「仏さん」に確認する暇がなかったのです。すみません。
けど、その時ちらっと思ったのは、「古代神」や「精霊(といっていいのかな、土地の守護とうか、土地にいる異界の方々」を写しとり、掘り出し、形を与えたのだなということです。
土地に居着く彼らを円空さんは「感じ取った」、もしくは、「分かって」、
彼らに姿を与えたのかもしれません。
どうか守ってやってくれと。
円空仏は、そのラフな作りや、余り木などで作られた気楽さから、
「祀られる」ことよりも、抱かれ、人に寄り、話し合ってきた仏です。
そういう存在の中に身を移すことは、
「人が好き」で、残っていた彼らにとっても嬉しい事だったのではないでしょうか。
(「彼ら」については拙ブログ内のカテゴリー「神世水奇譚」の後半に述べられています。)
今日調べてみた番組のHPの中にはこう書かれていました。
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表面はなた彫りでザックリ。形は、髪の毛が逆立っているものから、木の切り株のようなもの、狐(きつね)か鳥のような顔まで、さまざま。いったいこれは…?
この自由で、あまりにも枠にとらわれない仏像を誕生させた円空の狙いとは何だったのか。“革命”ともいえる新たな仏像誕生には、円空が厳しい修行から得た独自の境地と日本古来の世界観がかかわっていた。浮かび上がってくるアニミズムの精神…(以上 HPより抜粋。
**********
アミニズムの世界。
それをよく感じることができる場面が番組の中にあります。
『深い森の中にある清流』のシーンです。
それは失われて行っている日本の「有形無形の財産」です。
私はとても大事な財産に感じます。
その清流を「鬱蒼としている」「陰気臭い」「ジメジメしてそう」「ただの水」と見ることも出来れば、
深淵なる世界、自分を映し出す鏡のような世界、生きとし生けるものがバランスよく生きている「統合の美」の世界、と感じ取る事もできます。
どう感じるかは、見る人の感性であり、生き方です。
その財産をどうするかも自由です。
全部を残せ・・・とは言いません。
というか、残そうと思っても、もはや残せるのもはもうわずかしかないのですが・・・。
「感性=その人の文化」が残された財産の使い方を決めるのであれば、
今、私達に新たに出来る事は、自分の「感性」を磨く事であったり、
子に伝える事だと思いました。
忙しいお母さんに山の奥にイケとはいいません。
公園に落ちている葉っぱ一枚、枯れ枝一本でどれだけ子供が遊べるか・・・。
その一枚と一本を取り上げるか、与えるか、
そして、その遊びや葉っぱに親がどれだけ共感し、その共感によって子供の心が振動して、深く広く成長するのを手伝えるか・・・。
なんでもない小枝を「おもちゃ」として「創造」する力って、大人には難しい素晴らしい発想力だと思います。
その想像力が「見えない人の心を思いやる」事につながっていくようにも思いますし、
今後の日本が良い方に変わっていくような、思いもしない発想を生むかもしれません。
何が善でも悪でもなく「考え方、その方の文化の違い」でしかないのですが、
まず自分の感性(文化)がどうなのか、自分自身を考えるにいいシーンかもしれません。
ああ、すみません。
横道にそれ過ぎました・・・。
では最後に紹介される民家に伝わっている円空仏についての瑚噺をば。
初期の発信型でもなく、中期の「移し身仏」がより高みに登った形がそこにはありました。
◆河に浮かべて遊んだ円空仏
番組では民家に住むご主人が、円空仏と遊んだ噺をしてくれます。
円空仏に対して「友達が来たような」とその人が語ったとたん、
仏像から「懐かしさ」と「うれしさ」と、
そして、「ちょっとのほろ苦い寂しさ」が伝わってきてきました。
長い間、離れて見つめていた大事な人に、
やっと振り向いてもらえた時のような、
古い思い出のアルバムを開き、過ぎ去った日々を懐かしむような・・・
甘酸っぱい思いが伝わり、涙が滲んで来ました。
黒光りした仏さんを、アレックス氏は炉端で皆が眺めていたから等々、お話されます。
これがまた、仏さんの思いというか、背景をよく描写されています。
一物を極めると、能力云々(私自身はこの言い方があまり好きではないのですが・・・)なんぞなくても、
大事な物はちゃんと伝わってくるんだなと思いました。
それは、特別視されるものでもなんでもなく、誰でも本来もっている「人の大事な感性」の一つであるのだということも感じさせて頂きました。
そういう氏の言葉に反応して、
円空仏から色々な情景が流れ出てきました。
炉端で、日々の事を話す人。
時には誰にも言えない事を、誰にも見せられない涙を仏さんに見せつつ話す人。
嬉しいことや、めでたい報告、一家の話の場に家長の膝の上で共に聞いていた仏さん。
友達として、河で流されながらニコニコしている仏さん。
そいうイメージを感じながら、そういう勉強も何もしていない私ですが、
「円空仏」とはどういう仏さんなのか、感じるものがありました。
円空仏は、余り木で、ラフに作られる必要があったのではないでしょうか。
その理由の一つは、「身近に居るため」です。
丁寧に彫られ、ありがたがられ、祀られてしまっては「共に居ること」ができません。
円空仏は、いつも人とともに、肌を寄せ合い生きる必要があったのだと思いました。
そうして、人は服の袂や、時にはすぐそこに転がっている円空仏にはなしをします。
話をすることにより、円空仏はその目的と本領を最大限に発揮します。
語る人の言葉を受け、それを受け止める器になると共に、
その独特な微笑みを向けます。
瞑想するかのように細い瞳は、語り手の心を見つめます。
そして円空仏は「その人の中の仏」を映し出す鏡になるのです。
ラフな作りで有るほど、その姿に固定観念は消えていきます。
持った人が思うものに変わっていきます。
けど単なる「人形」ではなく、円空仏があくまで「仏」であるのは、
創りだした円空さんの心願ゆえだと思います。
初期の頃は、丁寧な仏の姿を掘り、そこから、仏を知ってもらおうとされたのかもしれません。
しかし晩年、彼は「人の中にある真性」、人の中にある「仏」を映し出し、
「自分の中の神の部分により自分を癒す」そしてそれにより「自分の中に神がいることをしってもらう」
事を心願にしたのではないでしょうか。
そのために、もっともそれに適した仏を作り出そうとし、
そして創りだしたのだと思います。
************
円空さんの時代は色々な土地で説法をしていけないという規約もあったようです。
そしてまた、仏の説法をいくら説いても、
喉元過ぎればなんとやら・・・、
人はその時の感情で、ありがたい話もすっとびます。
苦しくて、
悲しくて、
努力しても、何をしても・・・、
自分で同仕様もできないジレンマに陥った時、
ありがたい話は「ありがたくない話」にすらなってしまいます。
そんなジレンマを彼自身も知っていたのかもしれません。
そして、彼は自らが語ることをやめ、仏像に代弁を頼む事にしたのかもしれません。
仏を感じるように、仏の教えを思い出すように「仏像」を作り出していき・・・、
そのうち、色々な教えよりも「自分の中に仏がいる」という仏教の真骨頂を伝える事を一番にしたのではないでしょうか。
デフォルメされた仏は、「鏡」です。
安易に触れる事ができる仏像は、触れることで「触れている『自分自身』」を再認識する事ができます。
瞑想と違う意味で、そこには感じる事ではっきりする「自分」があります。
細い目は覗きこむものを自分自身の心に誘う案内手となります。
そして、円空仏最大の特徴である「ほほえみ」は、
『貴方の中にいる、貴方という仏の究極の力が「いつくしみ」で有るということ』、
を現しているのではないかと思いました。
「いつくしみ」
それは円空が見た人の中の仏の姿であり、人々に一番気がついて大事に持ち続けて欲しい宝珠だったのではないでしょうか・・・。
円空仏。
瞑想する微笑。
それは、貴方が円空仏に語りかける事で瞳を開けます。
手に取り、見つめることで「貴方の心の中の微笑」が花ひらくのです。
それが、
簡素な木の木切れである円空仏にかくも大勢が魅了する最大の要因ではないかと思うのです。
自分探しって、昔からやってたんですね・・・。
そう、最低でもブッタの時代にはもうね。
今、私達が触れられる円空仏はほとんどないですが、
私達が語りかける事ができる円空仏はまだ残っています。
円空さんは仏さんを作るときに、残す人や場所にあわせて「鏡の姿(仏像)」を変えています。
なので、世の中の展示物の円空仏の中で、貴方が「私の仏さんは?」と問うたなら、
きっと答えてくれる円空仏があるでしょう。
それは、耳に聞こえる声でもなく、
貴方の語りかけに対して、貴方の心に直接「惹かれる」「気になる」という形で返事をしてくれるでしょう。
最後に・・・、
三十三観音像に私が感じた慈しみの心は、
語りかけたアレックス・カー氏の心のなかの仏の波動だったのです。
民家に祀られている仏から来た「懐かしさ、嬉しさ、大事なものを慈しむ思い」は
一番身近に接してきたご主人の心の仏が発したものでした。
私は、画像の中の円空仏を通して、
一人ひとりの心のなかに居るその人の仏に触れさせて頂いたのです。
すごい・・・。
という感嘆以外なにもありません。
そして、人がこんなにも暖かい慈しみの心を持っている事を教えていただけた事に、
ただただ感謝するしか出来ませんでした。
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Eテレ再放送は12月23日夜8時からです。
円空仏が数%楽しく見える事を願いつつ。
それではまた。
瑚月
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注:
仏像や円空仏に対する膨大な書籍や学問が世に多々ありますが、それらにはほぼ無縁な無学なものでございます。
上記はあくまでも瑚月が感じた「感想」であり、一個人の思考の中での産物です。
ふかく円空仏を愛し、研究され続けた方々にとっては異論も多々あると思いますが、
感想文のようなものと、なにとぞご了承頂けたらとお願いいたします。
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Re: 瞑想する微笑~Eテレ:円空仏が数%楽しく見えるかも知れないもう一つの世界